女医のときどきブルーな日々

ときどき下を向いてしまう30代女医のつぶやき。「コーチング」「着物」「育児」などなど。

子どもという「不条理」を社会は許容できなくなっている

こんにちは。

コーチングプレイス認定コーチのあおです。

 

養老孟司さんの興味深い記事がありました。

 

 

ちょうど同じ頃、同じようなことを考えていました。

すなはち、子どもという「不条理」を社会は許容できなくなっているんじゃないか、と。

 

 

社会が不寛容になっているなんて言われますが、不寛容の矛先は、実は子どもたちに向いているんじゃないかと思うことがあります。

ここまで社会が整ってきた中、非効率的で不可解なものは異端です。そんなものは、そっと排除されたり、隔離されたり、あるいは効率化の中に組み込まれています。

そんな中で唯一、子どもだけはいつの時代も「不条理」で「不可解」な存在です。

 

ありとあらゆることが便利に、効率良くなり、自己責任論も随分と定着しました。

ちゃんと生きられないのは自分のせい。給料が低いのはそんな会社を選んだ自分のせいだし、ちゃんと調べなかった自分のせい。

 

「心地よい生活」という言葉が流行り、ライフハック本が山のように売り出されていますが、そのどれもが根幹に「自分が心地よい環境を自分で作りましょう」「自分でコントロールできる範囲で活動し、所有しましょう」という考えがあります。

確かにその通りなんですが、そんな思うようにはいかない。

特に子どもなんかはそう。私も3歳の息子を育てながら、あれやこれやと自分がやりたいことをやっていますが、とても「自分が思う通りに」整えることなんて無理。むしろある程度「うまくいかない」ことを前提に物事を運ばないと、とてもやってられません。

 

 

電車の中で赤ちゃんの泣き語がうるさいと怒られた、舌打ちをされた。

そんなエピソードも聞きますが、そもそも赤ちゃんの泣き声なんて誰にも(赤ちゃん自身にも)コントロールできないものです。でも、それに不快感を抱く人は、それすらも「制御できる」と心のどこかで思い込んでしまっている。

 

つい数十年前まで、電車の中はもっと騒々しくて無秩序でした。

車内でタバコ吸う人、大声で話しつつづける人、強引に席取りをする人がいました。実際に私が小学生のころ、地下鉄で酔っ払って卑猥な言葉を呟き続けるおじさんとかいましたし。

そんな中で「泣いている赤ちゃん」は、騒がしい風景の一つに過ぎませんでした。(むしろしょうもないおっさんより全然いい)

 

私の親世代だと、ちゃんとした外食でも食事に虫が入っていることもありました。

お茶を入れるのだってヤカンでお湯を沸かすところから。

資料を探すのにも検索システムなんてなくて、書類の山を探すこともザラ。

不便や理不尽や非効率がそこかしこに溢れていました。

 

けれどここ数十年で、生活は便利に楽になりました。

電車の中は静かで清潔になりました。安いチェーン店でも食事に異物混入なんてまずないですし、なんでも便利に、すぐに手に入ります。そんな中でも、私たちは「コスパ」「タイパ」とさらなる効率化を求めています。

 

社会が整うと同時に「子ども」という非確実で非効率な存在が徐々に際立つようになったように思います。

子どもは自由です。自由だし、わがままで、頑固で、優柔不断で、時々意味不明でカオスです。労働力として搾取されることなく、遺棄されることなく子どもたちが育つ社会こそ、近代・現代社会が目指してきたものでもあります。

 

子どもという不確実さ。それは「子どもらしさ」そのものであるはずなのに、何でも思うようになる社会に生きている私たち大人はその非確実性に驚き、あまつさえ「いないほうがいい」と排除しようとしがちです。

 

実際に、大人の世界で生きていくには子どもがいない方が楽です。

働くにも、旅行するにも、引っ越すにしても、子どもがいると悩みごとや考えることが倍以上に増えます。

たくさんの人がいい生活を送れるようにと、社会はどんどん便利になってきたというのに、却って子どもや他者に対する不寛容が増してしまったというのは皮肉な話です。

 

私も、子どもを育てる中で悩み立ち止まることが多々あります。

子どもがいなければもっと思うように時間が使えたのにと思うことがたくさんあります。

けれど産んでしまった以上、子宮に戻すことはできません。息子だって、たまたま私のもとに生まれてきただけ。誰も悪くない。誰も悪くないけど、うまく行かないことはあるのです。

 

忠臣蔵といい、日本人は因果応報が好きな民族かもしれません。

誰かの身に悪いことが起こったのは、その人が悪いことをしたからだと考えがちです。(痴漢や性犯罪にあった被害者が理不尽に責められるのと同じ構図ですね)

 

けれど、誰の身にも不幸は起こります。それも理不尽に、不条理に。

因果関係というならば、この世で生きている限り「なにも悪いことをしたことがない」というのは絶対にあり得ないわけですから、誰の身に不幸が降りかかってもおかしくないわけです。

 

誰しも子どもの時代がありました。

子ども時代を子どもとして過ごせたからこそ、今の大人の自分がいるわけです。

子どもという「不条理」でさえ受け入れられないほど余裕がない、ゆとりがない社会はきっと、誰にとっても生きづらいだろうし、それが現代日本の「子どもを持ちたくない」「子どもがいない方が楽」に繋がっているんだろうなと感じています。

 

 

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